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松田まなぶは東北被災地に行きました。横浜中華街の「蒸したて肉まん」を被災者に、奥山・仙台市長とも意見交換
4月23日早朝、松田まなぶは友人の調所謙一さんとともに一路、東北の被災地に向かいました。ワゴン車に中華街の肉まん千個と、肉まんをあたためるための大きなセイロを20個ばかり、大きな鍋を3つ、その他必要な機材を積み込んで、まずは仙台へ。
仙台市長と会見
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今回の東日本大震災についてはいかなる有識者がどんなに立派な発言をしたとしても、行動を伴わない言論がいかに空虚に響くものかと感じます。被災者のために個人として何ができるかを考え、それを実行し、今しか見られない現地の状況を頭に焼き付けなければ、次の日本を語る資格はないという思いに駆られました。
被災者の方々に、あたたかくて美味しいもので少しでも喜んで元気を出していただければ...。そんな思いで、一週間前から肉まんを求めて横浜の中華街を回ったところ、雅秀殿(がしゅうでん)という肉まん屋さんが大変協力的で、美味しくて評判です。そこの肉まんに決めました。機材はそのお店から貸していただきました。
千個の肉まんをあたためるには、大変な時間がかかります。仙台到着後、早速、二手に分かれて、松田は仙台市役所へ、調所さんは一路、避難所である名取市の館越小学校へ向かいました。
現地で協力してくださったのは、中村望さん(仙台の株式会社ダイヤパークの社長さん)、現地のNPOで被災者支援で活躍されている二階堂晴朗さん、それに東北大学の3人の女子学生のボランティアの方々です。
「蒸したて肉まん」作業メンバー...左から、中村さん、東北大学のボランティアの女子学生の皆さん<BR>
松田まなぶ、二階堂さん、調所さん
松田まなぶは、奥山恵美子・仙台市長とおよそ1時間近く、お話をすることができました。被災地の現状を詳細にわたってご説明いただき、意見交換をしましたが、市長からは、被災地の首長さんとしての責任感や使命感がひしひしと伝わってきました。一人一人の被災者の声を直接受け止めながら、まさに現場を預かって日夜奮闘されている責任者の言葉は、重みが違います。東京での議論がいかに上滑りなものが多いか、色々な面で考え方を改めざるを得ませんでした。市長が「リアリティー」という言葉を何度も使っておられたことが印象に残っています。
その後、松田まなぶも館越小学校に向かい、「蒸したて肉まん」作業に合流しました。初めての肉まん蒸しでしたから、慣れないうちは大変でしたが、なんとか避難所全員分の肉まんをあたたかいうちにお配りすることができました。一人一人の被災者の方に肉まんを手渡したときに聞かせていただいた「ありがとうございます」という言葉からは、先のみえない長い避難所生活の苦労が実感として伝わってきました。美味しいものもなかなか食べられないでいる方々に、ほんの小さな喜びでも与えることができたとすれば本望です。
避難所の若林体育館にてご挨拶
このセイロの肉まんが十分あたたまったか...長丁場の蒸し作業
あたたまった肉まんからどんどんラッピング
次に、一同で仙台市内の避難所である若林体育館に向かいました。全部の肉まん(一部はあんまん)を蒸し終わったのは、もう夜でした。体育館脇の私たちの作業場の隣では、自衛隊の方々が夕食の炊き出しをしていました。
「私たちはこういう時のためにいるのですから」と、その中のお一人はおっしゃっておられました。
自衛隊の皆さん...車の中で束の間の休息
夕食後の避難所で、松田からご挨拶をさせていただきましたが、プライバシーもない避難所の生活は、実際に体験したことのない者の想像を超えるものがあるだろうと思います。
しかし、地震大国日本では、いつ、自分たちもそのような状態に置かれるか分かりません。皆さまから拍手をいただきながら、たまたま幸運にも災害を免れた日本国民の一人として、自分にできるのはこの程度のことしかないのかと思ったものです。
残りの肉まんもすべて蒸して、他の二箇所の避難所にもクルマで無事、届け終わったとの報告が入ったときには、夜も9時を回っていました。久しぶりの肉体労働でした。
中村さん、二階堂さん、ボランティアの学生さん、それに途中から肉まん蒸しと配送を手伝ってくれた中村さんの会社の社員の皆さん、そして隣で炊き出しをしていた自衛隊の方々、本当にお疲れ様でした。
翌日4月24日、松田まなぶと調所さんは、中村さんの案内で、石巻市、南三陸町、気仙沼市、陸前高田市、大船渡市と、被災状況を見てきました。まさに「壊滅」という言葉はこのためにある。そう思わせるほどの津波の破壊力が残した悲惨な状況は、想像を絶するものでした。
渓流の音が聞こえるのどかな山道が突然、目を覆うような光景に変化します。こんな奥にまで津波が...、津波が到達した場所と到達を免れた場所は紙一重で、その運命が隔てられていました。
わずかな差での明暗
津波は鉄道高架も寸断
ここから多くの皆さまが避難所に……
頑丈なはずのJRの高架が波で寸断、クルマが3階建てアパートの屋上に、押し流された船が内陸部の山裾でひっくり返っている...一面に広がる瓦礫の荒野には、あっと驚くような現象があちこちに見られました。警察や自衛隊の方々、何かを探している人たち。
人間の日常の営みが巨大な残骸と化して視線の彼方まで広大に広がる様は、文明というものの気の遠くなるような死骸とでも表現してよいものか...、言葉を失います。ときどき冠水した道に突っ込みながらの行程でしたが、国土と都市の喪失という生々しい光景に、人間の無力さを痛感しました。これは単なる「復興」で済む話にはならないと思います。
今回の東北大震災については、多くの人々が、破壊のあとに白地に絵を描くが如く、新たな「まち」づくりを提案しています。松田まなぶも、この際、東北には、新たな社会システムと地域モデルの創造で、「世界のソリューション・センター」を構築すべきだ、と主張してきました。
日本は人類共通の課題に最初に直面する「課題先進国」になったといわれます。世界で最初に課題を解決した国は、その分野で世界をリードする国になる。21世紀は、世界で最初に人類が経験したことのない超高齢化社会に直面する日本にとって、チャンスの世紀だ。危機をチャンスに転じよう。
そう主張してきた松田まなぶは、いま、この大震災の後に何をするかを世界が注目している日本として、東北を世界の課題解決の中核的存在へと再設計すべきだと考えてきました。その考えは間違っていないと思いますが、実際に被災地に行ってみて感じたのは、どうもそう単純なものではないということです。
人間という存在が一体何なのかを考えると、単なる利便性やおカネの問題とは異なる次元で、人間としての自らの存在を確認しながらでないと生きていけないという実態を考えてしまいました。つまり、自分はこのまちで、こういう人々の中で、こういう存在として認められて生きてきたというところから切り離されてしまうことを、人は選択できないということです。
例えば、復興のためには被災者の皆さんにどうか、移住してほしい、理解してほしい
と呼びかけているシンクタンクもあります。
しかし、奥山市長とお話をしても、そのリアリティーの無さに気付かされます。この復興、新たな社会の組み立てというものは、よほど時間をかけて住民の納得と合意を形成しながらでないと現実には進まないと感じました。言葉も理念も、それだけではあまりに虚しいものです。
壊滅した町
気の遠くなるような瓦礫の撤去作業
「ビジョン」といわれますが、いかにすばらしいビジョンであっても実行できなければそれこそ絵空事に過ぎません。
真の課題は被災地の住民の皆さんがそれに向けて納得し、合意し、行動へと駆り立てられるような、まさにアクションステップといいますか、行動に向けた良循環の「デザイン」を描けるかどうかだと思います。
「復興」は途轍もなく長い道程になる。だからこそ、日本の国そのものの未来をどう建設できるのかが、ここで問われているのだと思います。
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